昭和52年01月16日 特別奉修委員
今朝から頂いておったことを 高芝さんと話したことでしたけど。今朝からこんなこと頂いとったよと言うてから話したんですけどね。あのう神様のことばぁっかり心の中に思いよったら、取り越し苦労やら心配やらは絶対起こってこないです。そして起きてきた時点でね、確かに難儀がいろんなことが起きてきた時点で、ああそうかということはどういうことかと言うと、ああおかげ、と頂くということなんですね。
これがあのう、今言うならば阿倍野の先生あたりの場合はそんなこと言うです。これはまああたくしの場合もそうです。もう取り越し苦労とか、あれがどうなるこうなるという、そういうことが全然使わんでええです。もうずうっと神様のこと思うとる。ということ言うはなら、信者さんのみなさんたちのいろんなことをいつもこう思うたり願うたりしよるという意味なんですよ。
また、神様の心を深かぁくわからせて頂いて、なら今朝から頂くようにおかげの実感なんです。だから、他んことが、こういうように取り越し苦労やらね、あの先に心配のごとやらの時にはね、神様ば今思うとらん時と思うて間違いないです。だから起きてくることが、「さあ困った」っちこうこうせにゃんのです。だから神様のことばぁっかり思うて実感させてもろうたり、祈ったりという中にはもう起きてきたその時点でね、あぁこれは神様がおかげをくださろうとしてござるばいな。
はぁこれがお徳をくださろうとして、こげな働きが始まってきとると受けられるわけです。夕べは富久信会がすんでから、それからあの、文男さんが足もみにきてくれましたけん、ちょうどそれは今朝2時半頃まで、そのう足をもみながらテレビをつけたところが、ちょうどあの「ジンギスカンの若い日」という若い日の、そのまあ洋画の素晴らしいあれがありよりました。深夜劇場ですね、あれは。
それでその足をもみ終わる、終わるまであの、まあそれよりか?まあその済むまで結局足をもんでおったんけどね。そして、文男さんが帰ってから、お礼を申させて頂いてから、2時半ですからもう一時間は休まれるから休もうと思ってお礼申させて頂いていたら、そげな場面はなかったですけれども、そのジンギスカンがこう、やぐらのようなもの、ちょうど昨日頂いたあの蚊取り線香のあれじゃないけれどもね。
ピラミッド型にやぐらがずうっと組んであるわけです。物見やぐらのように。そのやぐらの一番上にジンギスカンが上がっておるところを頂くんですよ。そしてもう降りろうと思ったところが、もう砦になってるから降りられないというね。これはもう人間のね、例えばあの、頂点に達した時に、成功の頂点に達した時に、もうそれから先はもういよいよ自由のきかん、もうおかげを落とすばっかりしかないとですよ。
ところが昨日の生き方で、あのほらあのね、ピラミッド型の蚊取り線香の下から燃えていく。これは生神と言う所なんです。頂点というのは。太閤秀吉が、言うなら、関白とまでね、いうような位に就いたけれども、一番上に上がった途端に、もうおしまいという時じゃったでしょうが。ジンギスカンだってそうです。世界の半分を、まぁあの征服すると言った様な所にあがった時には、もうすでにしまえた時。
気がついてみたところが、もう降りろうと思うけれどもそれが砦になっておるから、もう下にも降りられないと言う様なところを昨日頂きましたがね。そういう意味で、信心のある者とない者は、そげな大変な違いになってくるです。どんなに成功してこうだと言いよるけれども、そこがもう頂点でおしまい。すっとなら私し共がどんな場合であっても、言うなら、ばかとあほうでいこうという生き方ですよね。
いわゆるあの佐田のおばあちゃんの自分にも確かに気がついてなかったんですけれども、あたくしどもは佐田のおばあちゃん、そういうことを教えて下さったという感じするとですね。もう自分が助かることのために一生懸命だったということ。だからやっぱ苦しかったから、それが徳を受けるなんてんていうのは、やっぱ自分で思うてないわけね。けれども、なら一生を締めくくってしまわれた時にそれがね、いわゆるね、万禄行あったといったんです。万のことを全部徳にする行をしておられたっちゅうこと。
だから私しどもは、それによって、ははぁこれが徳を受ける修行と思うたらね、だから徳を受ける修行と思えれることのために、絶えず神様を心の中に頂いておけと。もうだからいつでも信心話ができるわけ。もう今思いよることを話したら、もう信心話、おかげ話。神様を身近に実感して頂いておる。もう取り越し苦労やら心配やら、その代わりもう、ちったばかんごたるですね。やっぱ確かに。他んことなぁんにも考えよらんし、あの思いよらんですからね。
というてなら家庭的にいろんな問題もあるし、いろいろある。ならあった所でですよ、それがおかげとこう頂かれるたい。もう最高のそれをおかげと頂けれるということ。もうね、一つあのう心配とか取り越し苦労やらをせんですむくらいに、一つ神様を思わにゃいかんですね。そうすると心配はない。そしてみなそこに痛いやら痒いの例えば起こってきた時でも、言うなら痛い、これで徳を受けられる。はぁこれがおかげを頂く元とそう頂いたらよかですね。こげん楽なことはない。
今日のご理解のまあ言うならば延長の様な事ですけれどね。今朝から頂いておった事を、神様のことを思いとか祈り続けておったら。取り越し苦労やら心配やらはもう絶対に、これには頭の中に浮かんでこないの。第一それなら、というてないかというと、ならさあ困ったとか信心のない者やら薄い者はね、さあこうとこういうでしょう。その時にこちらはおかげとして受けていく。もうそういうそれですよ一番素晴らしい。言うならほんとに徳を受けていく修行というのは、そういう修行だと。もう少し楽にねもうちっと神様の思い方が、神様を思う思いが足りない。そんな感じだね。
どうぞ。
追伸。
もう人間心を少しも使わないで済ますわけですね。今度のあの佐田のお婆ちゃんの謚を頂いてからでも、やはり美登里会の美、と登、が付いているからね。だからちょうどあの美登里会の仲間でしたからね。結局信心にはね、どのような急な山でも楽しく登ろうという会だから、だから今日は楽しく登ろうということを、朝からずうっと頂き続けて今の御理解がその事なのです。そのためにはもう少し、神様をもう少し思う事、少しは胸が痛くなるくらいに取り越し苦労とかが全然起きてこない。もし起きてきたり、人間心を使ってあれやこれやする時に「あっ自分は今、神様を外しておる時だ」と思って間違いない。
どうぞ。